愚かだろうと言われようと15の夜の少年はまだ其処に在る

15歳の夜から20年以上経ちました。それでもなお、変わらない部分は変わらないままでいます。

知人の死に想う

知人の訃報を受け、弔電を送る。
 
知っている人の死というのは、今の自分の生を思い起こさせるきっかけになる。
と言ったら亡くなった人には申し訳ないのかもしれないが、感情が揺さぶられることは確かだ。
 
これから先、こんなことはどんどん増えていくのだろう。
「遠いから」を理由に葬儀に行けなかったこともあるが、
じゃあ誰の時だったらそれを理由にせずとも行けるのか。
 
東京の叔父さんの時には、札幌にいて行けなかった。
札幌でお世話になった人の時は、東京にいて行けなかった。
会社の先輩の母親の葬儀には、まったく知らない人だったけど行った。
 
親の最期は看取れるんだろうか?
同級生だったら行くんだろうか?
もっと身近だった友人ならどうだろうか?
 
親族は慶弔休暇があるとして、友人・知人だったら
会社の仕事とどっちをとるんだろうか?
 
「あなたが虚しく生きた今日という日は、昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日である。」って言葉は、たぶん真実なんだろう。
相も変わらず周りの状況から変わってくれることを願っている自分にとっては耳が痛い言葉だ。
 
こんな記事を書いている暇があったら、仕事を進めるとか役に立つことをすればいいのに。
 
いまは大切な人のそばに居ることさえできていない。
ゴミにまみれた部屋に飲み込まれていき、
最低限の食事で腹を満たすのがやっとである。
 
こんなのを「生」と言えるのかは知らない。
大切な人のそばに居るだけだったら、仕事を辞めてでも飛んでいきたいが、
収入のことを考えるとそうはいかない。
かと言って、十分な収入を稼ぐことができてもいない。
たまに見える仕事の面白さや未来の展望に喜びを感じながらも、
80%くらいは寧ろ苦痛な仕事。
 
亡くなった知人は田舎に生き、田舎に死んだ人であった。
不幸はあったが、息子も育て上げた。
 
東京やネット社会は”前へ、前へ”を叫び続ける。
これじゃヤバいを唱え続ける。
 
変わらず生き抜き、変わらず死んでいった人に価値なんか無いのだろうか。